《得体の知れない私》と向き合うとはどういうことか? 自分の足で歩んでいくための闘いだった【神野藍】
神野藍「 私 を ほ ど く 」 〜 AV女優「渡辺まお」回顧録 〜連載第49回
【私はどこにも行けない存在なのか?】
私という存在の輪郭をなぞり一つ一つ言葉にしていくうちに、ある時他人に対して取り繕うような行為をしても意味がないと気がついた。良くも悪くもここに書かれていることが私の思考であり、意志なのだから必要以上に良く見せようとしたり、何かを隠したりしたところでいずれは明るみに出る。最早「ここに書いてあることを読んで、うまくやっていけないと思うならば距離を置いてほしい」と思うほどであった。
一定数、今目の前に存在している私ではなく、過去の私だけを見ている人間は存在する。彼らはどんなに不適切な発言や存在を軽んじるような発言でも笑顔で受け入れてくれると信じ込み、平気でそう行動する。映像の中の止まった時間を現実と勘違いするとは何と悲しいことだろうか。そして、それを「しょうがない」と諦めていた私は何と愚かなことだろうか。
人間関係は互いの誠意と維持の努力で成り立つものではあるが、私が一部抱えていたものはそこに満たないもので、私にとって不必要であると分かりながらも無駄に力を尽くしていた。そういったものに対して、毅然とした態度をとっていくうちに自然と繋がりが解消されていき、そして同じような人間が集まってくることも無くなった。
今、私の周りには《今の私》を見てくれる人間しか存在していない。それだけでこんなにも穏やかな気持ちになれるなんて、少し前の私では想像することができなかった。
一定の時期から私は《過去の私》を過ちとして扱うようになった。あの2年間、確かに存在していたきらきらとした時間までも全て黒く塗りつぶし、勝手にラベルを貼り付けて触れないようにしていた。ふとした瞬間に苦しむためだけに過去の時間を引き出す、そんな状態であった。
そんな私を引きずり出し、目の前に座らせて対話をする。このエッセイはその作業の連続で、得体の知れない私というものが、以前よりも理解できるようになった。だからといって、今も完全にそこから脱却したわけではなく、じりじりと痛みがぶり返し我を忘れるようなこともあるし、何かを決断しようとしたときにふと良くない感情が過ぎることもある。ただ、前よりも受け入れられるようになったのも事実で、何よりも今の私がもう苦しむだけの場所に留まるのではなく、もう少し先に歩いていきたいと思えるようになった。
一つ一つの選択を繋いで、ここまで歩いてこれた。それが正解か、不正解か、成長か、退化か、私ですら分かっていない。ただはっきりと分かっているのは、私はちゃんと自分の足で歩けるように、そして自分が願った場所に歩いていけるようになったということだ。途中で苦しくなっても、苦しくない場所までまた進んでいけば良い。
もう私はどこにも行けない存在ではないのだから。
(第50回、最終回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定
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